松野殿御返事 現代語訳+講義 パート3

御書

1.現代語訳

こうした教えによって考えるなら、たとえどんなことがあっても、法華経を信じて実践している人を、互いに誹ってはなりません。

その理由は、法華経を受持する者は、必ず皆、仏となる存在だからです。

仏となるべき人を誹ることは、そのまま仏を誹る罪になるのです。

1.講義

この御文は、「互いを仏として尊敬し合う」という、日蓮大聖人の広宣流布の教えを明確に示しています。

たとえどんな状況であっても「互いに誹ってはならない」という戒めは、人類の平和を築くための規範とも言えるでしょう。

人は、時に迷い、失敗もします。

しかし、その奥底には、必ず仏となる可能性がある。その一点を信じ抜くことが、法華経の信仰です。

池田先生は、この日蓮大聖人のお心をわが心とし、

「すべての人を尊敬、尊重していくことは、仏法者としての、生き方の根本姿勢であるからだ。それを、自分の感情で人を叱ったり、後輩に対して威張り散らすようなことがあっては、絶対にならない」と語られています。

2.現代語訳

このように心得て唱える題目の功徳は、釈尊の功徳とまったく同じです。

経には「阿鼻地獄の苦しみもすべて仏の境涯に含まれ、毘盧遮那仏の身と国土も凡夫の一念を超えるものではない」と説かれています。

十四の誹謗の心については、経文に従って推し量るべきです。

2.講義

この御文は、私たちが唱える題目の功徳が釈迦仏の功徳とまったく同じであるという、日蓮大聖人の究極の「平等宣言」を示しています。

池田先生は、この日蓮大聖人の御心をわが心とし、

「誰の唱えるお題目の功徳も、すべて平等です。」と語られています。

3.現代語訳

このように法門をお尋ねになることは、まことに後世を願っておられる方であります。

経には「よくこの法を聴く者は、これまた得がたい」と説かれています。

この経は、正しい仏の使いが世に出なければ、仏の御本意のままに説くことは難しい上に、この経の意味を問い尋ねて疑いを晴らし、よく信じる者もまた得がたいと示されております。

3.講義

日蓮大聖人は、門下の「法門を尋ねる心」を、「後世を願う」姿勢であると讃えられました。

これは、真理を探究しようとする「求道の心」こそが大切であることを教えているのです。

池田先生は、

「常に求道心を燃やしていくことが大事です」と語られています。

4.現代語訳

たとえどんなに身分の低い者であっても、自分より少しでも智慧のすぐれた者には、遠慮せずにこの経の意味を問い尋ねるべきです。

ところが、末法の人々は我慢や執着、名誉や利益にとらわれてしまい、「自分があの人の弟子になるなんて。

もし教えを受けたら、人に軽く見られるのではないか」と、常に悪しき心にとどまり、ついには悪道に堕ちるのです。

法師品には「八十億劫もの長い間、あらゆる宝を尽くして仏を供養する功徳よりも、法華経を説く僧を供養し、後にほんのわずかな時間でもこの経の法門を聴聞するならば、私は大いなる利益と功徳を得ると喜ぶべきである」と説かれています。

智慧のない者であっても、この経を説く者に仕えることで功徳を得ることができます。

たとえどんな鬼や畜生であっても、法華経の一偈一句を説く者を「必ず立ち上がって遠くから迎えるべきであり、仏を敬うようにすべきである」と説かれている道理に従えば、互いに仏のように敬い合うべきです。

たとえるなら、宝塔品の時に釈迦仏と多宝仏が互いに敬い合ったようにすべきなのです。

4.講義

この御文は、「謙虚な姿勢」と「万人尊敬」こそが、求道の道であることを示しています。

また、我慢や名誉、身分への執着という悪の根源が、成長を阻み、幸福を遠ざけると厳しく戒められました。

池田先生は、

「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし。)─法華経の行者を敬うこの姿勢こそ、戦う同志を、求道の人を迎える、創価の永遠の精神である」という謙虚な求道の精神を貫かれました。

5.現代語訳

この三位房という人物は身分の低い者ですが、ほんのわずかでも法華経の法門を説く者であるならば、仏のように敬って法門をお尋ねになるべきです。

「法に依って人に依らざれ」という教えを心に留めておくべきです。

5.講義

この御文は、「法に依って人に依らざれ」という、日蓮大聖人の仏法の根本原理を明確に示しています。

だからこそ、法を語る人が誰であれ、そこに日蓮大聖人の心があるならば、私たちは謙虚に耳を傾けるべきなのです。

池田先生は、

「日本の平和と幸福を築いていくには、日蓮大聖人の仏法による以外にありません。その大法を流布する創価学会を批判し、倒そうとすることは、日本の柱を倒すことに等しいと、私は申し上げておきたい」と示されています。

6.現代語訳

さて、昔ひとりの人が雪山という山に住んでいました。

その人の名を雪山童子といいます。

蕨を折り、木の実を拾って命をつなぎ、鹿の皮を着物に仕立てて身にまとい、静かに仏道を修行していたのです。

6.講義

この雪山童子の物語は、真実の法を求め、仏道を貫く「求道の姿勢」が、いかに尊いかを教えています。

雪山童子は、雪山という厳しい自然の中で、世間の名誉や利益より、ただ純粋に仏道修行に励んでいました。

池田先生は、

雪山童子の仏教説話で見落としてはならないのは、童子が身を投げ出した相手が、羅刹の姿を現じていたということだ。そこには、法を求めるうえで、相手の人格や、社会的な地位や立場などによって、紛動されることがあってはならないとの、戒めの意味が含まれていよう」と分かりやすく語ってくださいました。

7.現代語訳

雪山童子が思ったことは、

「よくよく世間を観ると、生死は無常の理であるので、生まれた者は必ず死ぬ。

だから、この苦しみの多い世のはかなさは、まるで電光のように一瞬であり、朝露が日の光でたちまち消えてしまうようなもの。

風の前の灯火が消えやすく、芭蕉の葉が破れやすいのと異なることはない。

人は皆、この無常から逃れることはできず、最後に一度はあの世へ旅立つ。

その死後の旅路を思うと、暗くて真っ暗であり、太陽や月や星の光もなく、せめて灯火さえもない。

その暗い道に、共に行く人もいない。

この世では、親類や兄弟、妻子や眷属が集まり、父は慈しみの心が深く、母は悲しみの情けが厚く、夫婦は海老が同じ穴に住む契りのように、一生を一緒に過ごして離れることがない。

鴛鴦が同じ布団の下で枕を並べて戯れるように仲むつまじいのだが、あの死後の旅路には共に行くことはない。

暗い道をただ一人で行く。

誰が来て善悪を導いてくれるだろうか。

また、老人と若者、どちらが先に死ぬかわからない世の中であるから、老いた者が先立ち、若い者が残ることもあり、これは順序通りの道理。

その嘆きの中にも、せめて慰めとなることもある。しかし、老いた者が残り、若い者が先立つこともある。

最もつらいのは、幼くして親に先立つ子であり、最も嘆かわしいのは、老いて子に先立たれる親である。

このように、生死は無常であり、老人と若者、どちらが先に死ぬかわからない世の中ははかないのに、人々は昼夜、現世利益のための行動ばかりに専念し、仏を敬わず、法を信じず、修行も智慧もなく、空しく日々を過ごしている。

死後、閻魔の裁きの場へ引き出される時には、何を資糧として三界の長い旅を行き、何を船や筏として生死の広い海を渡り、実報や寂光の仏土に至るのだろうか」と思いました。

「迷いの人生は“夢”。悟りに目覚めた人生こそ“現実”。ならば、この夢のような苦しい世の中を捨てて覚りの現実を求めよう。」と考え、雪山に籠もって観念の座に妄想や迷いを払い、ただひたすら仏法を求めていました。

その姿を帝釈が遥かに天から見下ろして思ったことは、

「魚の子は多いが、魚になるのは少なく、菴羅樹の花は多く咲くが、実になるのは少ない。

人もまた同じである。

菩提心を起こす人は多いが、退転せず真実の道に入る者は少ない。

すべて凡夫の菩提心は、多くの悪縁に惑わされ、事に触れて移りやすいものである。

鎧を着た兵士は多いが、戦に恐れを抱かない者は少ない。

この人の志を試してみよう」と思い、帝釈は鬼神の姿を現して童子のそばに立ったのです。

7.講義

この御文は、雪山童子の「生死の根源的な問い」と、「夢のような現世に執着せず、真の法を求める決意」を示しています。

童子の無常観は、人生の目的を見失った現代人への厳しくも温かい問いかけと言えます。

池田先生は、

「三世の生命観に立つならば、今世で罪障を消滅し、永遠の幸福の軌道に入るために、生まれて来たということなんです。来世は、必ず、幸せになって生まれてきます」と指導されました。

ご覧いただき、ありがとうございました。                                  次回、[松野殿御返事 現代語訳+講義 パート4]に続きます。

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