1.現代語訳
その時は、仏が世におられなかったので、雪山童子はいくら大乗経を求めても、聞くことができませんでした。
ある時、「諸行は無常である。これが生滅の法である」という声が、かすかに聞こえてきました。
童子は驚いて四方を見渡しましたが、人の姿はどこにもありません。
ただ鬼神が近づいて立っていました。
その姿は険しく恐ろしく、頭の髪は炎のように逆立ち、口の歯は剣のように鋭く、目を怒らせて雪山童子を見守っていました。
しかし童子はそれを見ても恐れず、ただひたすら仏法を聞けることを喜び、怪しむことはありませんでした。
まるで母から離れた子牛が、かすかに母の声を聞いたような心持ちであったのです。
1.講義
この御文は、真実の教えとの出会いが、どれほど難しく、尊いかを示しています。
仏が世におられないという点で、末法にも通じる状況の中で、童子は探し求めた真理の言葉を、恐ろしい鬼神の姿を通して聞きました。
童子は鬼神を恐れることなく、「母の声」を聞いた子牛のように、真理の言葉に歓喜しています。
池田先生はこの姿に求道心の本質を見ておられ、
「求道心こそ、信心の養分を吸い上げ、自身の成長をもたらす根である。その根が強ければ、必ずや、幸福の花々を咲かせゆくからである。」と教えられました。
2.現代語訳
雪山童子は思いました。
「このことを唱えたのは誰だろう。まだ残りの言葉があるはずだ」と思い、あたり一面をくまなく尋ね求めましたが、やはり人の姿はありませんでした。
そこで童子は「もしやこの言葉は鬼神が説いたのか」と疑いましたが、「いや、そんなはずはない」と思いました。
「あの姿は罪の報いによる鬼神の形である。この偈は仏が説かれた言葉である。こんな卑しい鬼神の口から出るはずがない」と考えました。
しかし、他に人もいないので、「もし、この言葉を説いたのはあなたですか」と問うと、鬼神は答えました。
「私に物を言うな。食べずに日数を過ごしたので、飢えて愚かになり、正しい心を保てない。すでに戯れ言を言ったのだろう。私が嘘をつくつもりで言ったなら、知ることもできないだろう」と答えました。
2.講義
この御文は、「法と人」の関係を通して、「真理は誰が語っても尊い」という仏法の深遠な原則を示しています。
童子は、鬼神の姿と、その口から出た「仏の言葉」との間に矛盾を感じましたが、最終的に言葉の真実性を優先して鬼神に問いかけました。
池田先生はこの御文にも通じる求道心の大切さについて、
「幹部になり、慣れてくると、学会のことも、仏法のこともわかったような気になって、〝こんなものか〟と思い込んでしまう場合がある。それは求道心が乏しく、慢心になってしまったということなんです。」と厳しくもあたたかくご指導されました。
3.現代語訳
童子が言いました。
「私はこの半分の偈を聞いたことは、半分の月を見たようであり、半分の玉を得たようなものです。確かにあなたが唱えたものでしょう。どうか残りの偈を説いてください」と。
すると鬼神が言いました。
「お前はもともと悟りを得ているのだから、聞かなくても恨むことはあるまい。私は今、飢え苦しんでいて、とても語る力がない。だから私に向かってこれ以上話しかけるな。」と。
それでも童子は尋ねました。
「食べ物を得れば、説いてくださいますか」と。
鬼神は答えました。
「食べ物を得れば、説いてやろう」と。
童子は喜んで「では、何を食べ物とするのですか」と尋ねました。
鬼神は言いました。
「それ以上聞くな。その答えを聞けば、必ず恐ろしくなる。お前が求めるべき物でもない。」と。
しかし童子はなおも尋ねました。
「その食べ物が何であるかだけでも教えてくだされば、試しに探してみましょう」と。
すると鬼神は答えました。
「私は、ただ人の柔らかい肉を食べ、人の温かい血を飲むのだ。空を飛び回って広く探しているが、人々は仏や神によって守られているため、思うように殺すことができない。仏や神が見捨てた者だけを食べているのだ。」と。
3.講義
雪山童子の「半分の玉を得たようなもの」という言葉は、真実の法との出会いに対する彼の計り知れない歓喜と価値観を示しています。
そして、残りの真理を得るための条件として、鬼神は「人の肉と血」という、究極の難行を要求しました。
この鬼神の要求は、法を得るための試練であると同時に、「命がけの求道心」が試される象徴的な場面です。
この“不可能に見える挑戦”という点において、池田先生は、次のように語られています。
「戸田城聖が会長に就任した折、いまだ、実質三千人ほどの会員にすぎなかった時代に、彼の生涯の願業として掲げた目標であった。折伏がいかに難行であるかを実感していた会員たちにとっては、七十五万世帯は、途方もない数字であるように思われた。それが七年足らずの短日月で、いよいよ年内には、実現が疑いない事実となったのである。」と語られました。
4.現代語訳
その時、雪山童子は心に思いました。
「私は法のために身を捨てて、この偈を最後まで聞き終えよう」と。
そして言いました。
「あなたの食べ物は、ここにあります。外に探す必要はありません。私の身体はまだ死んでおらず、その肉は温かいでしょう。私の身体はまだ冷えておらず、その血も温かいでしょう。どうか残りの偈を説いてください。この身体をあなたに差し上げます」と。
すると鬼神は大いに怒って言いました。
「誰がお前の言葉を本当だと信じられるというのか。偈を説いた後、お前が約束を破ったら誰を証人として問いただせばよいのか」と。
雪山童子は答えました。
「この身は必ず死ぬものです。むなしく死ぬ命ならば、法のために投げ出す方が良いのです。この汚い身体を捨てれば、来世には必ず悟りを開いて仏となり、清らかで尊い身を受けられるでしょう。土の器を捨てて宝の器に替えるようなものです。梵天・帝釈・四大天王・十方の仏菩薩をすべて証人といたします。私は決して偽りは申しません」と。
鬼神は少し心を和らげて言いました。
「もしお前の言葉が本当なら、偈を説いてやろう」と。
その時、雪山童子は大いに喜び、身に着けていた鹿の皮を脱いで法座に敷き、頭を地につけて掌を合わせ、跪いて言いました。
「どうか願わくは、私のために残りの偈を説いてください」と心の底から深く敬ってお願いしました。
そこで鬼神は法座に登り、偈を説いて言いました。
「生滅が滅し終わって、寂滅を楽とする」。
4.講義
雪山童子が「法のために身を捨てる」と決意したこの行動こそ、まさに、日蓮大聖人の御精神そのものと言うべき「不惜身命の求道の姿」です。
童子は、必ず滅する「土の器」であるこの命を、永遠不滅の「宝の器」である仏の命へと、そこに、人生最大の価値創造を見い出したのです。
この不惜身命の生き方について、池田先生は次のように語られています。
「自ら多くの悩みを抱えながら、友のため、法のため、広布のために生きることは、確かに大変なことといえます。しかし、実は、みんなのために悩み、祈り、戦っていること自体が、既に自分の境涯を乗り越え、偉大なる人間革命の突破口を開いている証拠なんです。」と。
5.現代語訳
その時雪山童子は、この偈を聞いて、限りなく喜び、尊さを感じました。
そして「後世までも決して忘れまい」と思い、何度も繰り返し口ずさんで心に深く染めました。
童子はさらにこう思いました。
「喜ばしいことは、この偈はまさしく仏が説かれた教えと少しも違わないことである。しかし歎かわしいことは、私一人だけが聞いて、人々のために伝えられないことである」と。
そこで童子は、石の上や壁の面、道ばたの木々に、この偈を書き記し、「願わくは後に来る人々よ、必ずこの文字を見て、その意味を悟り、真実の道に入りなさい」と言い終えると、すぐに高い木に登り、鬼神の前に身を投げ落としました。
5.講義
この御文に示された「私一人だけが聞いて、人々のために伝えられないのは歎かわしい」という一念こそ、日蓮大聖人の自行化他の慈悲の精神そのものです。
雪山童子は、真理を得た喜びを「独り占め」するのではなく、すべての人に伝え残すという使命の中に、自らの命の価値を見出したのです。
この『何に命をかけるのか』という一点について、池田先生は次のように示されています。
「現代では、仕事や会社に帰命する人もいれば、愛する人のために命を投げ出す人もいます。大事なことは、何に帰命するか、何に自分をかけていくかによって、その人の人生の幸・不幸が決定してしまうということです。大聖人は、最高無上の、本源的な帰命とは、人法一箇の御本尊への、南無妙法蓮華経への帰命であると教えられている」とご指導されました。
ご覧いただき、ありがとうございました。 次回、[松野殿御返事 現代語訳+講義 最終パート]に続きます。
📺 YouTube 日本語・韓国語・英語で対応🎥 Available in Japanese, Korean, and English

Comments